廣陵兼純先生、来阪大豊中キャンパス

本年お正月の能登の大震災で被災されて滋賀県のお嬢様のお宅に身を寄せていらっしゃる廣陵先生に、1960年代~1970年代の伝統芸能の「録音」について調べている科研の一環として、当時の節談説教の「録音」について聞き取り調査をしたくて豊中キャンパスへお越しいただき、前半はちょうど先週と先々週に節談説教の映像を見たばかりの「音楽学講義」の学生有志にも公開させて頂きました。

ほんの少しだけならお説教もという有難いお言葉も頂いたので高座を準備したのですが、上部の畳がなく方々をさがしまわっていたら、お電話で座布団でいいよとおっしゃって頂き、特注の座布団を急遽調達、ところが講義室の講壇が邪魔で高座を設置することが難しく、最終的に講壇へお座りいただくことに。大学の講壇が本来の姿を取り戻した瞬間でした。座布団が大きくて足場が不十分になるという・・・もう少し大きい講壇を設置するのが今後の使命です。

万事が急遽急遽の私に終始いつものごとく親切な廣陵先生、マイクの高さや見栄えなど入念な助言まで頂き、多くを学ばせて頂きました。この道で本当に多くの方々の前でお話をされてきた先生の、節談説教を人の心へ最後の最後まで届けることへの心づくしは、節談説教を後世に遺そうという文化財的思想とは異なる次元で、アートやアートマネージメントを真摯に学ぶ学生にも貴重なのではないかと気づかされました。こういうところが、小沢昭一さんと深くつながるところです。LPを出したあとも小沢さんが廣陵先生をお誘いしては多くの公演をされていたのには、先生のそうした「銭になる」(先生談)ところまで高めるプロフェッショナリズムが関係しているように思います。もしかしたら小沢さんにこの点で影響を与えたのは、先生かもしれません。文化財的思想を改善するためには、こうしたプロフェッショナリズムをともに遺すことも条項に入れる必要があるのではないかと思います。

このようなところへ大切な先生をお招きしてしまい、お寺関係の皆様にはお腹立ちの向きもあろうかとお詫び申し上げます。おかげ様で学生は真剣に傾聴しており、先生の言葉の響きが彼らの心の何かを変えたように思われました。そして、質問へのお答えからは、先生の体中すべてがお説教で満ちていることが分かりました。

研究室へ戻ってからも引き続き多くの質問をさせていただきました。その中で、付き添いで来られた奥様の和子さん(和子さんは名説教師の茂利宗玄師のお嬢様で、その弟さんも名説教師の茂利真正師)こそが、「上手な」節談説教を聞き分ける耳をお持ちの重要人物であることが分かりました。また、お車を出していただいたお嬢様(私と同じ年うまれ)の、小さい頃はお父さんがお説教に出ていて多く家を空けることがあった、というお話も、お説教のさかんであった1970年代という時代を物語る重要な証言として伺いました。

ご自坊の門前満覚寺の罹災の写真をあますところなく見せていただきました。以前お寺へ伺っているだけに、あまりの惨状に体が震えました。一刻も早い復興につながるよう祈りつつ、祈るだけではなくて私などにも可能な勧進ができればと思いました。

(後日談 2024.6.15)

このレポートをお読みいただいた先生と翌々日にお電話でお話しているうちに、1970年代には節談説教をする人がいなくなっていたからこそ、未だ高座があるお寺からやってほしいとお声がかかって自分が忙しかったのだとお話を頂きました。備忘録的に書き添えておくと、先生の先生である範淨文雄(のりきよぶんゆう)師は、信者さんが録音するのを好まず怒っておられたとか(いま残っている録音は特別に録音したもの)、また、範淨先生と同じお話を先生がすると、怒ってマイクを抜いたということもあったとか。。。録音の話もマイクの話も、同じである、ということに対する忌避という点で共通しているのかもしれませんので、音のメディア的に興味深いお話です。。